□■ 序論 ■□
中二病とは何か。
最近巷ではよく、何かあるごとにやたらと「中(厨)二病」という単語で表現される。
だが、その単語は一体何を意味しているのであろうか。
その定義について説明してみろと言われるとなかなか難しいのではないだろうか。
皆の力強い味方ウィキペディアさんでは、中二病とは「思春期特有の背伸びした行動」と説明されている。
つまり、その単語を用いる誰もが通過したと思われる「中二」の時代、すなわち中学二年生において、大人っぽいと考えていたあれやらこれやらは、
実際大人になった現在で思い返せば、実は全て浅はかで荒唐無稽なものであったなあと苦笑いしてしまうようなものであったということだ。
それを「背伸びした行動」と表現しているのであろう。
確かにそれは一理あるような気がするものの、しかしながらどこかしっくりこない。
一般に、中二病という単語には往々にして揶揄が含まれており、背伸びしがちな子供を見守る大人の温かな視線では決してない。
この説明に欠けているもの、それは「恥」という概念ではないだろうか。
単純に「背伸び」したが故の「行動」なのではなく、「かっこいいと思って背伸びした行動」が今思えばとても「恥ずかしさ」を想起させるものだった。
これこそが「中二病」という揶揄の言葉の真意なのではないだろうか。
すなわち、誰かが「あれは“中二病”だ」と言った場合、その人は対象となる他者の行動に対して「恥ずかしいことだ」と糾弾しているのである。
また、この「恥」の概念は二重の意味を持っている。
この「恥ずかしいことだ」という糾弾は、中学生で終えるべき発想や思考を大人においても引きずっている他者に対するものであるが、
その判断を行うことが出来るのは、その糾弾されるべき思考が中学生特有のものであるとその者が理解していることが前提となっている。
つまり、判断者はかつてその「恥ずかしい」行動を当該の時代に多かれ少なかれ体験していたからこそ、とある他者の行動に対して恥を感じるのであり、
それは同時に、その者の過去の恥を掘り起こす所作でもあるのだ。
他者の“中二病”的行動が、かつての自分の恥とリンクし、共鳴することで、あたかも自分が今現在その行動で恥をかいていると錯誤する。
その反動故に、中二病的な行動はより一層の批判と非難を受けるのである。
行為自体の恥と、それを見た者の過去の恥という二重構造こそが、中二病という言葉の本質なのである。
では、実際のところ、その「背伸びした恥ずかしい行動」とやらはどんなものなのだろうか。
多くの大人は日常の些末事に追われ、思い出す間もない。
おぼろげな記憶は持ち得ているものの、それがある種の恥を孕むものゆえに、進んで振り返ることをしない。
だが、中二病はその単語自体が示している通り、かなり厳密にその時代―――中学二年生という時代を確定している。
決して曖昧な「過去の思い出」として、あの時はこんなことをしていた「気がする」といった蒙昧な単語を用いて思い起こされるものではない。
そこで今回、筆者はあえて禁断の「過去の思い出」を詳細に思い起こすことによって、
中二病という単語が厳密に規定している中学二年生において繰り広げた実際の行動記録を発掘することを決めた。
これは多分に痛みを伴うものであり、推奨される解明方法ではない。
だが中二病というからには、中学二年生の行動そのものを振り返らなければその単語理解は適わないと判断し、このページを作るに至った。
この試みにおいて主として使用する文献は、筆者がまさに中学二年生時に執筆していた漫画である。
小学校卒業時頃から描き始めたと思われる漫画はキャンパスノートにして20冊以上にものぼり、およそ4年にわたって制作された。
単一漫画でありながらも本人の気分によって主人公が変わり、また絵柄も作風も設定も当時読んでいた漫画に引きずられ続けるという性質を持つ
まさに中二病に相応しい出来映えのこの文献は、筆者本人のHP・MPを著しく減退させるものである。
今回はその漫画の概要と登場人物の紹介を中心に、中学二年生特有の発想と思考回路を読み解いていく。
さわりのみとはいえ、既に破壊力のあるそれらは、中二病における「中二」の部分に課せられた意味を明らかする資料としては十分であろう。
中二病の単語が孕む恥の二重構造のためにこれを閲覧する者に対しても言いしれぬ恥を想起させることも必至であるが、
その作用こそが中二病の本質の理解へと近付くものであると信じている。
平成25年11月3日 沫棋ひろむ 拝
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